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12月11日沖縄県のコザ、あしびなーで行われた、「沖縄ぬ心に風吹きよ」第一回ぶっちゃけ会 ~政を語ろう~ から

こういう本質的な議論はなかなか耳にすることができませんね。大歓迎です。
エンディングの”花”のコラボも圧巻♪

喜納昌吉&三宅洋平 ぶっちゃけトーク&エンディングライブ

このトークの前には花バンド・三宅洋平さん・喜納昌吉さんのライブがあったようです。
こちらもすばらしい。
(続きを読む…)

 

この記事は 朝日新聞 WEBRONA 2012.6.11 より

安全性について野田首相の主張
「福島のような事故は決して起こさないということであります。福島を襲ったような地震・津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っています。これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、炉心損傷に至らないことが確認をされています」
「これまで1年以上の時間をかけ、IAEAや原子力安全委員会を含め、専門家による40回以上にわたる公開の議論を通じて得られた知見を慎重には慎重を重ねて積み上げ、安全性を確認した結果であります」

泉田新潟知事の反論
「福島原発事故はいまだ収束しておらず、事故の検証も進行中であり、換言すれば、意思決定過程や組織のあり方なども含めた事故原因の特定も行われていません。事故原因が特定されなければ、対策を講じることができないことは自明の理であり、専門家である原子力安全委員会も班目委員長が安全を確認していないことを明言しています。このような状況下で専門家でもない総理が安全性を確認できるはずもありません」

「『電源が失われるような事態が起きても炉心損傷に至らないことが確認されている。』との発言についても、現実には、『電源が失われなくても、炉心冷却に失敗すれば、大惨事になる』ということが福島の教訓であることを無視した説明です」

元の記事は 朝日新聞


 

東京新聞 2012年6月9日

【社説】「大飯」再稼働会見 国民を守るつもりなら

国民の生活を守るため、野田佳彦首相は関西電力大飯原発3、4号機を再稼働させるというのだろうか。国民は知っている。その手順が間違っていることを。このままでは安心などできないことを。
これは原発再稼働への手続きではなく、儀式である。

西川一誠福井県知事の強い要請を受け、従来の発言をなぞっただけ、西川知事にボールを投げ返しただけではないか。誰のための記者会見だったのか。いくら「国民の生活を守るために」と繰り返しても、国民は見抜いている。そして儀式には、もううんざりだ。

国民は、首相の言葉をどのように受け止めたのだろうか。

「スケジュールありき、ではない」と首相は言う。しかし、長期停止した原発のフル稼働には六週間ほどかかる。そのような再起動の手順を踏まえた上で、小中学校が夏休みに入り、電力需要が本格的に高まる前に原発を動かしたいという、“逆算ありき”の姿勢は変わっていない。

経済への影響、エネルギー安保など、原発の必要性は、執拗(しつよう)に強調された。だが国民が何より求める安全性については、依然置き去りにしたままだ。

「実質的に安全は確保されている。しかし、政府の安全判断の基準は暫定的なもの」という矛盾した言葉の中に、自信のなさが透けて見えるようではないか。

会見で新たな安全対策が示されたわけでもない。緊急時の指揮所となる免震施設の建設や、放射能除去フィルターの設置など、時間と費用のかかる対策は先送りにされたままである。これでどうして炉心損傷を起こさないと言い切れるのか。どんな責任がとれるのか。首相の言葉が軽すぎる。

未来のエネルギーをどうするか。脱原発依存の道筋をどのように描いていくか。次代を担う子どもたちのために、国民が今、首相の口から最も聞きたいことである。それについても、八月に決めると先送りしただけだ。

「関西を支えてきたのが福井県であり、おおい町だ」と首相は言った。言われるまでもなく電力の消費者には、立地地域の長い苦渋の歴史を踏まえ、感謝し、その重荷を下ろしてもらうためにも、節電に挑む用意がある。ともに新たなエネルギー社会をつくる覚悟を育てている。そんな国民を惑わせ、隔ててしまうのは、その場しのぎの首相の言葉、先送りの姿勢にほかならない。

 

この記事は 東京新聞 【社説】 2012年6月9日

 

茨城県東海村の村上達也村長は2日、福井県で行った講演の中で、大飯原発の再稼動を急ぐ政府に対し、
「原子力政策、規制の体制が曖昧なまま、暫定の安全基準はその場しのぎと言わざるを得ない。戦略的思考を持っておらず、原発を持つ資格はない」と批判した。

もと記事は 東京新聞 6月3日

 

【 うちの国のエネルギー政策が、この先、どんな大方針のもとに運営されるのかについて、東電はもちろん、どの大臣も明確な説明をしていない。どじょうが出てきてこんにちわで、坊ちゃんいっしょに遊びましょうみたいな、ずるずるべったりの展開だ。 】
【 残念なのは、再稼働した(←すでに完了形で語っています)ことそれ自体ではない。
本当に残念なのは、再稼働に当たって、うちの国の原子力政策の将来像がまったく提示されず、稼働を許すための条件も課されず、ひとっかけらの約束すら掲げられていないことだ。】

小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句(読むには無料登録が必要ですが、この方のコラムは一読の価値があります。)

 

5月5日の深夜、動いていた最後の原発、北海道電力の泊原発3号機が定期点検のため止まり、ついに原発の一台も動いていない日本が出現した。

nanohanaではサイトのスタートとともに、トップページに稼働原発のカウントダウンを掲載し、全機が止まる可能性を見つめてきた。実現する可能性が大いにあると思ってはいたが、実際にそれが実現するのは大変感慨深い。
まずは、素直に稼働原発ゼロの日を喜びたい。

しかし、この原発の一台も動いていない日本は何かの努力によって生まれたものではない。それは大震災と原発の壊滅的な事故との余波であり、それが大震災と原発事故による多くの(そしてこれからも延々とつづくであろう)犠牲者の上に成り立っていることを忘れてはならないだろう。最大級の自然災害と最大級の人災の複合災害という、人類未曾有の大災厄の焼け跡に咲いた一輪の花。
この大きな犠牲の上に出現した「原発の一台も動いていない日本」という奇跡を大切にしたい。

事故の日以来、稼働原発ゼロへのカウントダウンを数えながら、私たちは多くを考え、多くを学んだ。
そして、今気がついている。原発とは私たちのライフスタイルがもたらした怪物であり、もしその再稼働を望まないならば、私たちはライフスタイルを変えてゆかなければならないだろうということに・・・

今日、大手マスコミにいくつもの再稼働を望む記事が載ったが、その多くは産業界の声としてだった。
「いら立ち募らす経済界」 「従業員の生活にしわ寄せ」 「産業界にとっては安定生産の障害」 「海外移転が加速しかねない」
原発を望んでいるのは産業界なのだ。このことはとても象徴的に思える。

私たちの消費、そしてそれを支える生産システムである産業界。このシステムは限りない欲望を作り出しながら、去年よりも今年、今年よりも来年と、毎年利益が増え続け、生産が拡大し続けることを前提に成り立つように出来上がっている。逆に言えば、毎年生産が現状維持あるいは縮小し続けると成り立たずに潰れてしまう。大変困った、未熟なシステムだ。
そして、この拡大し続ける生産を支えるエンジンとして、もてはやされてきたのが原発だ。
いわば原発は産業の華であり、また消費の華ともいえよう。

私たちが原発をなくそうと思えば、改めなけれなならないライフスタイルの筆頭は、「贅沢は素敵だ」と言われてきた、この生産と消費のシステムではないだろうか。
ちょっと見には消費、贅沢、浪費はなかなか止まらないと考えられがちだが、実は本当に止まりづらいのは生産の方だと思う。

なぜか?
私たちは「働かざるもの食うべからず」という価値観に強く呪縛されているからだ。
私たち個人がというよりも、社会全体が・・・

革新的な技術の進歩は、本来なら人々を労働や苦労から開放しそうに見える。
例えば、田畑をクワで耕していた頃と比べると、耕運機が耕してくれる今の方が農業は楽になっているはずだ。
しかし不思議なことに、現実はそうはなっていない。
生産効率が上がると、値段が安くなるからだ。同じだけの稼ぎを上げるには、生産量を増やすしかない。作業の効率が倍になる技術が出現しても、倍以上の生産をしなければならなくなるとすれば、作業は楽にはならず、逆によりきつくなる。

今の農家は、クワで畑を耕していた頃と同じ生産量ではとても食べていけない。クワの時代の何倍も何十倍も、ひょっとしたら何百倍もの生産高を強いられている。
これでは技術の進歩によって解放されるどころか、負担がどんどん増えてゆくだけだ。

もちろん農家だけではない。あらゆる産業や、生活の中でも、同じことが起きている。
新型の洗濯機の出現によって主婦は楽になるのか?
新型の洗濯機などを買える生活水準を維持するために、主婦業の片手間にアルバイトにいかないとならないとしたら、さらには夫婦共働きでないとやっていけないとしたら、何のための技術革新なのだろう?

私たちの周りの技術革新はしかし、そういう風に進行してきた。
それは決して人々を解放する方向には向かっていなかった。

つきつめると機械に仕事を取って代わられて、失業するという事態すら発生する。
各地の都市で無人の電車が走っている。運転手はもう必要ない。
さあ、運転手は究極の”楽”を手に入れたのだろうか?
もう働かなくても食べていけるのか?

もちろん、そうではない。
私たちの社会は「働かざるもの食うべからず」という価値観に縛られているのだから。

運転手は仕事から解放されたのではなく、
ただ単に食い扶持を失ったのだ。
彼はきっと、食うために何らかの新しい仕事を探さなければならないだろう。
社会にとって重要な仕事ほど、機械化、効率化が進んでいる。
それによって仕事から締め出された人たちがありつける仕事はどんなものだろう?
おそらく、少しずつ重要さを失い、だんだんに、あってもなくてもいいような仕事になってゆく。
社会にとっては、ほんとは別にやらなくてもいいのだけど、
でもそんな仕事でも無理やり作り出さないと食っていけないからね・・・
かくて、世の中にはどうでもよいような仕事、産業、商品が溢れ出すようになる。

これを消費の側から見るとどうだろう?
例えば食料はどんどん生産量が増えてくるので、
一人あたりの食べる量もそれに見合って増えないとおかしい。
当然そうなる。
結果は肥満と糖尿病とダイエットブームと食べ残しのゴミの山だ。

食料など重要な品物の生産の機械化・効率化・無人化が真っ先に進むと、
それで職を失った人々は別の仕事を求めて、だんだんどうでもいいようなものを作り始める。

そうしたどうでもいいような商品も買い手がいないと成り立たないので、
人々はどんどん、なんだかどうでもいいような物を買わされるようになる。
例えばテレビの通販とかでね・・・

なんで、そうまでして働かないといけないのでしょうね?
何かおかしいよね。

この産業界というシステムは、無限に生産量が増えて行かないと成り立たない事になってる。
だけど、もちろん無限に増えてくなんて無理だ。
地球は有限だし、資源も、エネルギーも有限なのだから・・・

私たちは大きな時代の曲がり角に来ているのだと思う。
”成長の限界”というやつだ。
私たちがこれから減らしていかなければいけないのは、
消費ではなく、
生産であり、仕事だ。

生産物はもう溢れている。
あふれに溢れている。
これ以上作り出すことには、悲鳴を上げているのだ。
工場の社員がじゃないよ、地球がだ。

原発の事故は地球がそれを教えてるのだと思う。
もう、限界が近いよって。

だから、私たちが編み出さなければいけない新しいライフスタイルは、
仕事を減らし、生産を減らす、
なんて言うか遊んで暮らすに近いものになるんじゃないだろうか?

食料など本当に必要なものは、機械がかなりの部分を働いてくれるとしたら、
人間はそれ以上あんまり余計な仕事を増やさない方が地球のためだ、よね?

これってでも、今までの経済のシステム、
働いた見返りにお金を得るというシステムとは全く相容れない。

だから、なかなか難しそうだ。
これからは遊んだ見返りにお金を得るような新しいシステムをつくらないといけない。
これが新しいライフスタイルになると思う。
難しいだろうけど、いろんなものごとを発明してきた人類だからきっとできると思うな。
たとえばベーシックインカムとかは多少ともこれに近い経済理論だし、
もっともっと考えれば、良い知恵が浮かぶはずだ。

そして、遊んだり、踊ったり、ぶらぶらしてるとお金をくれる会社があれば、
みんな強いてまで働かなくなるんじゃないだろうか?
地球は少しは楽になるし、
私たちは、失業ではなく、解放されるのだ。

原発が次々に止まってゆくなかで、
政府や電力は、原発がないと困ったことになるよという苦し紛れのキャンペーンとして、
電力が不足するというデマを煽った。
そのデマにおどらされ、脅されながらも
私たちは”節電”というあたらしい習慣を身につけた。

しかしこれは単なる我慢では無い、なかなかすばらしい経験だった。
部屋の明かりを2割ぐらい暗くしても不自由もないことを知った。
電気料が安くなるのもうれしかったし、
別に見たくもないのにだらだらつけてたテレビを止めたら、
会話も増え、食事も楽しくなった。
友達は会社の冷房がゆるくなって冷え性の自分には良かったといってた。
我慢したことよりも豊かになったことの方に喜びを感じてる自分がいた。

”節電”はいろいろな発見があった。
電気の消費を減らすことは、
必ずしも我慢だけではないという、この発見は大きい。
豊かさや、解放がどこにあるのか少しだけ見えた気がする。

来るべき新しいライフスタイルは、
決して贅沢をあきらめることであったり、
買いたい物を我慢するようなネガティブなものではないと思う。

むしろ私たちは、無駄な仕事や消費をさせられ消耗しているのだと気づけば、
それらを減らすことは、自分の豊かさを取り戻すことであり、解放なのだとわかる。

せっかく全部止まった原発だ。
これはどう考えても神様の大きなプレゼントだと思う。
大事にしよう。
再稼働はしてほしくない。

そのために、
私たちは自分を解放するという新しいライフスタイルに挑戦してゆくことになるだろう。
その先に待っている世界を思うと、なんだかどきどきする。

無駄な電気を止めたように、
無駄な労働をやめて、人々が踊っている社会が実現したとき
原発は過去の遺物となっていることだろう。

夢を見る力が現実を変えてゆく。
私たちは今、新しいライフスタイルの入口に立っている。

 

東京新聞 社説 2012.5.4
 あす、原子力発電の火が消える。私たちは、それを日本の大きな転換点と考えたい。新しく、そして、優しいエネルギー社会へ向かう出発点として。

 私たちは間もなく、原発のない社会に暮らすことになる。

 全国五十基の原発がすべて停止する。国内初の日本原電東海原発(茨城県東海村)と敦賀原発1号機(福井県敦賀市)が止まって以来、四十二年ぶり。ただし、稼働中の原発がその二基だけだったころのことだから、比較にはならない。

◆不安定な基幹電源

 東海原発は一九六六年に、営業運転を開始した。その後七〇年代に二度のオイルショックを経験し、北海道から九州まで、沖縄を除く日本全土に「国策」として、原発が建設された。五十基が現存し、この国の電力の約三割を賄う基幹電源に位置付けられる。

 しかし、安全意識の高まりの中で、新規立地や増設が難しくなってきた。ここ十年で新たに運転を開始したのは、中部電力浜岡原発5号機など四基にとどまる。電源開発(Jパワー)が建設中の大間原発(青森県大間町)などは福島第一原発事故の影響もあり、操業開始のめどは立っていない。

 震災前にも、定期検査以外に不祥事やトラブルが相次いで、平均稼働率は六割台と低かった。震災後の昨年度は二割強にとどまった。原発は少し大きな地震に遭えば長い停止を余儀なくされる。基幹電源とはいわれていても、もともと不安定な存在なのである。

 「原発ゼロ」とはいうものの、原子炉は消えてなくならない。すぐに大きく社会が変わり、安心安全が訪れるわけでもない。

 震災時、福島第一原発4号機は定期検査で停止中だった。ところが津波で電源を失って、使用済み燃料を保管するため併設された貯蔵プールが冷やせなくなり、危険な状態に陥った。

◆神話と呪縛を克服し

 止まった後の課題も今後、ますます深刻になるだろう。

 中でもすぐに直面するのが二つの原発依存である。電力の約半分を原発に依存する関西の電力不足と、経済の大半を原発に頼り切る立地地の財政と雇用の問題だ。

 このほかにも、欧米や中国からも後れを取った風力や太陽光など自然エネルギーの普及促進や行き場のない高レベル放射性廃棄物の処分など、難しい課題が山積だ。原発ゼロはゴールではなく、原発に頼らない社会の構築へ舵(かじ)を切るスタート地点なのである。

 それでも明日は、われわれの社会と暮らしにとって、大きな転換点には違いない。

 ゼロ地点に立ち止まって考えたい。震災は、原発の安全神話を粉々にした。安全神話の背後にあるのが経済成長の呪縛である。原発、あるいは原発が大量に生み出す電力が、経済成長を支えてきたのはもちろん疑いない。

 経済成長を続けるため、電力需要の伸びに合わせて、高出力の原発を増設し続けた。そうするには、原発は絶対に安全でなければならなかったのだ。その結果、原発は安全神話に包まれた。

 消費者も、そのことにうすうす気づいていたのだろう。日本は世界唯一の被爆国である。私たちの記憶には世界中の誰よりも核の恐怖が染み付いている。経済成長がもたらす物質的な豊かさは、恐怖さえ、まひさせたのかもしれない。被爆国としての倫理に勝るほど、成長の魅力は強かったのか。

 経済成長の神話にも今は陰りが見える。目の前の転換点は、消え残る神話と呪縛を克服し、被爆国の倫理を取り戻す契機になるはずだ。経済の効率よりも、私たちは人間の命と安全を第一に考える。野放図な消費を反省し、有限なエネルギー資源をうまくいかすことができるのなら、新しい豊かな社会を築いていけるはずである。

 優しい社会をつくるため、私たち消費者もエネルギー需給の実態をよく知る必要があるだろう。暮らしを支える電力がどこでつくられ、電気のごみがどこへ葬られるかも知らないで、原発推進、反対の対立を続けていてもしかたがない。電力事業者の誠実な情報開示が必要だし、私たちの暮らしのありようももっと考えたい。

◆ゼロ地点から始めよう

 浜岡原発の全面停止を受けて名古屋では、原発推進、反対双方の市民有志がこの三月、地域にふさわしい電力供給と消費のあり方を事業者とともに考えようと、「中部エネルギー市民会議」を発足させた。「エネルギー自治」を目指す新たな試みだ。同様の活動は各地で始まっている。

 ゼロは無ではなく、そこから生まれるものは無限大という。明日訪れるゼロ地点から、持続可能で豊かな社会を生み出そう。私たちの変わる日が来る。

 

北海道新聞 社説 2012.5.4

東日本大震災まで日本の電力供給の3割を占めていた原発が送電を停止する日がやってくる。

 北海道電力泊原発(後志管内泊村)3号機があす定期検査に入り、国内の全原発50基が運転を止める。

 全原発の停止は、政府が議論を積み重ねた末に行った選択ではない。それどころか、政府はこの状況を避けようと、なりふり構わず再稼働を急いできた。

 政府の拙速な姿勢にブレーキをかけたのは、「できれば原発に頼りたくない」「再稼働は安易に認められない」という民意だろう。

 福島第1原発事故の惨状を目の当たりにした国民が、期せずして「原発ゼロの日」を実現させたと言える。

 私たちは、この日を原発のない未来に向けた真の意味での転換点としなければならない。

*脱依存の姿勢どこへ

 こうした民意を、政府は真摯(しんし)に受け止めているだろうか。

 枝野幸男経済産業相は「できるだけ早く恒久的に原発依存度をゼロにする」と強調するが、その言葉とは裏腹な事態が足元で進行している。

 エネルギー基本計画を見直す総合資源エネルギー調査会(経産相の諮問機関)で最近、2030年の電源構成について複数の選択肢が示された。この中には、原発比率が従来より高い35%の案も含まれている。

 こんなことが起きるのも、民主党政権の原発に対する姿勢が定まらないからだ。

 野田佳彦首相は就任時に脱原発依存の方向性を打ち出しただけで、目標達成に向けた具体的プロセスには一切ふれようとしない。むしろ姿勢が後退した印象さえ与える。

 最低でも、政府が示した寿命40年という新たな指針に沿って、危険で老朽化した原子炉から順次廃炉にしていく中長期の工程表が必要だ。

 併せて、再生可能エネルギーなどの代替電源を増強し、廃炉のスピードを早める努力が欠かせない。

 再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度が7月に導入される。

 事業者の背中を押し、普及を加速させるためにも、首相は脱原発に取り組む決意と展望をはっきり語るべきだ。

*拙速な再稼働は論外

 場合によっては、中長期の脱原発と、短期の電力需給を切り離して考える必要もあるだろう。

 あらゆる手を尽くしても電力が足りなければ、新たな規制機関が最新の知見を取り入れた基準で安全性を確認し、必要最低限の原発の再稼働を検討することになる。

 現状は、その段階ではない。電力各社は今夏の電力需給見通しを発表したが、あくまで「言い値」であり、じっくり検証する必要がある。

 何より福島の事故の原因も責任の所在も解明されていない。事故への責任を問われてしかるべき経産省原子力安全・保安院が再稼働の手続きを進めるのも論外だ。

 政府は手順を誤ってはならない。肝心な点をあいまいにしたまま、福島の事故の前と同様の甘い規制が再現されることには、強い危機感を持たざるを得ない。

 原発事故の取り返しのつかぬ被害を受けるのは周辺住民をはじめとする国民であり、途方もない損害賠償を税金や電気料金の形で負わされるのも国民なのだ。

*道の工程表も必要だ

 福島県は県内全10基の原発を廃炉にし、再生可能エネルギーを軸とした復興プランを描いている。

 北海道は風力、太陽光、地熱など再生可能エネルギーの宝庫だ。

 北電は、現在接続希望のある風力、太陽光発電の270万キロワット全量を受け入れるには、北海道と本州をつなぐ海底送電ケーブル「北本連系」などの送電網強化に7千億円かかるとの試算を公表した。

 風力、太陽光は天候によって出力が変動し、道内だけではその影響を吸収しきれない。北本連系を通じて、電力の大消費地である首都圏に変動分を送電することで不安定さを克服する。

 北海道を再生可能エネルギーの供給基地と位置づければ、公費による助成も可能だろう。

 送電網は文字通りの公共財となり、中立性を高めるため発送電分離を含む電力改革の重要性が増す。

 原発の廃炉と同じく、再生可能エネルギーの普及にも中長期の工程表がいる。道も交えた第三者機関をつくり、地産地消と道外への供給の両面から課題とコストを早急に検証しなければならない。

 脱原発の視点に立った条例を持つ自治体の首長として、高橋はるみ知事は工程表づくりを主導すべきだ。

 同時に、私たちは暮らしを見つめ直し、エネルギー消費のベースを下げる努力が欠かせない。原発ゼロ状態で節電と省エネに知恵を絞った経験は将来への財産となるはずだ。

 原発を他の電源に切り替える道のりは平たんではないだろう。全原発が停止する「こどもの日」を、将来世代に安全な環境を約束するための長い挑戦の出発点ととらえたい。

 

これまでたくさん時間があったのになぜわずか二日で暫定新基準をでっち上げるようなマネをするのでしょうか?
担当大臣の枝野氏も暫定基準を作るという直前に、わざわざ「現時点では再稼働に反対だ」とか、福井県に加え京都府の山田啓二、滋賀県の嘉田由紀子両知事の理解が前提になるとか言うのでしょうか?
再稼働するつもりなら、なぜわざわざ物議を醸すような発言をする?
しかも数日後にはあいまいな言い回しで前言を翻す印象を与えている。

わざわざ自治体に不信感を持たせ、民意も逆撫でするようなやり方です。
あまりにドタバタ、支離滅裂で、とても真剣にやってるように思えないのです。
どーにも腑に落ちません。

もし私が再稼働の担当者なら、当然、もう少し”上手”にやるでしょう。

考えられることは次の三つでしょうか・・・
①ほんとにほんとにマジなんだけど、あまりに無能者ばかりでまともな戦略が立てられない。
②何らかの理由で表立って反対できないので、再稼働をするフリをしながらわざと稚拙な方法で失敗に導こうとしている。
③政府内で再稼働派と慎重派が対立していて熾烈なバトルを繰り広げている・・・

①なら再稼働してくるでしょう。でもこんな無策で泥縄な段取りでうまくいくのかな?まあ、それほど政府が低レベルなら、ここからは国民の出番ということでむしろ喜ぶべきかもしれないですね。日本を作り変えるチャンスだ。
あんまり政府がご立派で、隙がなくて、手練手管の海千山千で超手ごわいよりは、ずーっといいよーな気がします。

②というのは、例えば”ムラ”の利権の縛りがあまりに強大で表立って逆らえないというような場合です。実はこの可能性はあってもおかしくないと思ってます。みんな献金もらってたり、業界やそっち系の労組が支持母体だったり、スネに傷があってマスコミには逆らえなかったりする訳だからね。
そうやって、圧力かけられつつも、なんとか稼働させまいと、わざとぐちゃぐちゃの段取りで突っ込みどころをあちこちに用意しつつ進めてるのかな、と・・・ どうか首長さんお怒りになって、首を縦に振らないでくださいと願いながら。
これは私の希望的観測がたくさん入っているのですが、そうとでも思わないと理解できないほどの段取りの悪さではあります。

③もありえますね・・・その場合これからどうなるかは予断を許しません。

私としては②の可能性に一縷の望みをかけている今日このごろです。

 

東京新聞  2012.3.14

 先に結論ありき。一見、慎重に検討するふりを装いながら、実は結論はとっくに決まっている。そんな日本政治の悪弊が、またもや原発再稼働問題で繰り返されようとしている。

 野田佳彦首相は東日本大震災から一年の記者会見で再稼働を判断する手順について、こう説明した。

 まず首相と藤村修官房長官、枝野幸男経済産業相、細野豪志原発事故担当相の四人は原子力安全委員会が実施する安全評価(ストレステスト)の妥当性と地元の理解をどう進めていくかを確認する。

 そのうえで「政府を挙げて地元に説明し理解を得なければならず、私も先頭に立たなければならない」という。つまりテストの結果を首相たちが妥当と判断して、それを根拠に「だから再稼働を認めてください、と地元を説得しますよ」という話ではないのか。

 初めから再稼働の結論が決まっているのだ。それならなぜテストをするのか。「安全かどうか分からないから試験する」のがテストであるはずだ。それを結果が出る前から首相自ら再稼働に向けて説得に乗り出す、と宣言している。

 こんな茶番劇を許してきたことが原発事故を引き起こした遠因である。科学的判断よりも政治的判断を優先しているのだ。それとも首相はテスト結果を「妥当でない。だから再稼働を認めない」という結論を出す可能性があるというのだろうか。 (長谷川幸洋)

この記事は 東京新聞  2012.3.14

 


2月20日、関西電力高浜原発3号機(加圧水型軽水炉、出力87万キロワット)が定期検査に入り停止します。
関電管内の全ての原発が停止することになり、関西圏は放射能を撒き散らさないクリーンなエネルギーで満たされます。

これで、九州・中国・四国・関西・中部・北陸・東北の各エリアで全原発が停止、原発がなくても電力は何ら不足しないことが証明されて、ますます原発の不用性が明らかに。

国内で残り稼動しているのは新潟の刈羽6号機(東電)と北海道の泊3号機(北電)の2機のみ。
わずか2機です!

その2機も刈羽が3月26日に、泊まりが4月下旬に止まることがきまっており、国内全原発が停止する日は目の前です。
全国から放射能で汚れたエネルギーが消えてなくなるその日は、とてもシンボリックな日になるでしょう。
綺麗になったエネルギーのなかで、深く呼吸し、心を静めて、今後の日本の進むべき道を問い直しましょう。

期せずして、原子力エネルギーが一度リセットされるのです。
それは、巨大震災と人類最悪の原発事故という天災人災の複合大災害に見舞われた日本の、
その過酷さのどん底に射す一条の光明であり、すばらしいプレゼントだと思います。

私たちは、ゼロから新しいスタートを切ることができるのです。
一度止まった原子力エネルギーを
そのまま永眠させ、核に頼らない新しい日本を創ってゆくのか、
それとも、再び過去に戻り、原子炉をもう一度起動するという、安易で欲得にまみれた恥辱の道を歩むのか・・・

すべては私たちの選択にかかっています。
日本の真の復興とは何か?
答えは風の中ではなく、私たち一人一人の中にあります。

 

ひとつ前の記事で、子供に飲ませる牛乳に対する親の厳しい視線により、
牛乳の実質基準がどんどんゼロベクレルに近づいていっている話をご紹介しました。
消費行動が業界を動かし放射能の実質基準値を下げている好例です。

誤解を恐れずに言いますが、それが可能なのは、牛乳の汚染がそれほどひどくないからです。
軒並み数百ベクレルというような汚染度ではないのです。
どんなに選んでも何十ベクレル以下のものは手に入らないというような状況ではありません。
むしろ、最も汚染されている地域でも数十ベクレルのものがたまに出る位の汚染度なのです。
このくらいならば、慎重に選べば0ベクレルは全く不可能ではありません。
ゼロベクレルの食品は十分現実的な話なのです。。

もう一度原点に立ち返って考えてみたいと思います。
(続きを読む…)

 

この記事は 琉球新報 社説 2012.2.13

 この国の政府はまるで属国のようだと思っていたら、官僚だけでなく民間までが、国民よりも米国に忠誠を誓っているかのようだ。
 東京電力が、福島第1原発敷地内の放射線量マップを、公開の1カ月以上前に米原子力規制委員会に提供していたことが分かった。
 国民に知らせる1カ月前というだけでなく、政府に報告するよりも1日早かった。東京電力は国民よりも、政府よりも米国に顔を向けている。そう批判されても反論できまい。
  (続きを読む…)

 

運転停止中の関電・大飯原発3、4号機について、再稼働の前提となる「ストレステスト」を審査してきた保安院は、13日、関電が提出した一次評価を「妥当だ」とする最終評価をまとめ、原子力安全委員会に報告した。

これについて、
《保安院に設置されている専門家会議委員の井野博満東京大学名誉教授と後藤政志芝浦工業大学非常勤講師は、「こうした拙速なやり方は、 とうてい認めらない」として、保安院の対応に抗議する緊急声明を同日夜、発表した。 》
OurPlanet-TV 2012.2.13 

<抗議声明全文>

                                   2012年2月13日
 
    関西電力大飯 3・4 号機ストレステスト審査書提出に抗議する緊急声明
                   ストレステスト意見聴取会委員 井野博満・後藤政志
 
 原子力安全・保安院は、本日、関西電力大飯原発3・4号機の一次評価を「妥当」と する審査書を原子力安全委員会に提出しました。私たちは、このような拙速なやり方は、 とうてい認められません。
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いま、世界の原発メーカーは大手3社がほぼ独占している。三菱アレヴァ東芝ウェスティングハウス(WH)日立GEの3社で、いずれも日本企業と外資との提携企業だ。
世界最大の原子力複合産業グループ・アレヴァ社と、ウェスティングハウス・エレクトリック社はいずれもロスチャイルド財閥グループの傘下、GEはロックフェラー財閥を代表する企業だ。
ロンドンに本拠地を置き、ヨーロッパを拠点に世界展開するロスチャイルド財閥と、アメリカを拠点とするロックフェラー財閥は、世界のエネルギー産業の2大巨頭であり、エネルギー利権の総元締めだ。


ロックフェラーセンターの中心に建つGEビル

エネルギー利権の中で、石油と原子力という視点で見ると、スタンダードオイルを作り、石油王と呼ばれたジョン・D・ロックフェラーに始まるロックフェラーグループはどちらかというと石油利権、ウラン王と呼ばれたギー・ド・ロスチャイルドを産んだロスチャイルドグループは原子力利権と言える。

また、原子力産業の中では、ロスチャイルドはウラン燃料利権をにぎり、ロックフェラーは原子力プラントでリードしてきた。

この両者は、一見ライバル同士のようでもあれば、互いに支えあう利権共同体のようでもあり、実はロスチャイルドを親分とする主従関係であるという見方もある。
実態は深い闇に包まれよくわかっていないが、両者が世界のエネルギー利権の総元をにぎり、世界中の国の政策をも左右していることは、原発メーカーの主要3社を専有していることからだけでも容易に想像がつく。

この両グループと、日本の企業とが結びついて、世界の原発プラントを独占している。これは一体何を意味するのか?

そこには世界エネルギー利権を牛耳る世界財閥グループと、その子飼いで、利権のおこぼれに預かる原子力ムラ(政・官・財複合の利権構造)という構図がある。

実は、エネルギー利権はこの構図の一角に過ぎない。世界財閥グループと日本の利権集団との共存というか、子飼い関係は軍事や金融などあらゆるところにおよんでおり、それは歴史的には明治維新に由来している。

この歴史の総括ができない限り、日本は変わらないと思う。
それにはまず歴史知ることから・・・

利権の近代史を一瞥してみよう。
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東京新聞 社説 2012.2.4

 原子力は多くの命を危険にさらすことがある。それを監視すべき機関がこれまで実は、原子力ムラの一員だった。新たに発足する原子力規制庁の最初の仕事は“独立”を示すことである。

 原発の規制を担う原子力安全・保安院は、原子力の旗振り役を務める経済産業省の外局、つまり下部組織。これが、そもそもの間違いだった。推進と規制が同居する産学官のムラ社会の中で、すべてが決められ、進んでいた。

 緩い基準と規制のもと、国中に原発と、その安全神話をばらまいておきながら、大事が起きれば「想定外」とほおかむり。シンポジウムで推進をあおるような、電力会社へのやらせ工作もあった。

 保安院の無責任と偏りに強い不信を覚えているのは、福島の被災者だけではない。看板をいくら書き換えても、中身が変わらなければ意味はない。 

 信頼回復に今最も必要なのは、規制庁の独立性だ。
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NEWS ポスト セブン 2012.1.31

「原発が止まると電力が不足し、電気代は高騰する」――そんな理屈が原発推進派は語るが、果たしてこれは正論か? ノンフィクション作家の佐野眞一氏が斬る。
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中日新聞 社説 2012.1.30

 原発の是非を問う住民投票を実現させようという東京と大阪での運動に注目したい。命や暮らしを左右しかねない原発政策が住民不在のまま進められてきた。そんな不条理への抗議行動でもある。

 原発を動かすのか、止めるのか。自分たちで決めようと呼び掛けているのは、市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」。東京都と大阪市で住民投票のルールとなる条例づくりをそれぞれの首長に求めようと活動している。

 福島第一原発の事故がもたらした放射能汚染は、原発が立ち並ぶ福島県をはるかに越えて広がった。関東一円の住民は、生活環境の除染や、食品や水の安全確認に生涯にわたり追われる羽目になった。

 一方で事故原因の究明も、健康への影響の見極めも、損害賠償もままならないのに、国は収束を宣言した。定期検査で止まった原発の再稼働や原発プラントの海外輸出に血道を上げているようだ。

 こんな矛盾に直面しても、原発政策の決定は、国と電力会社、立地先の自治体のみに委ねられている。普通の住民にとって意思表示の場は用意されていない。

 東京都が東京電力の、大阪市が関西電力の大株主であることを踏まえ、まずこの電気の二大消費地で住民投票を試みる意義は大きい。電気の消費者として、“間接的な株主”として住民には一票を投じる資格があるだろう。

 条例づくりの直接請求には有権者の2%の署名が要る。大阪では一カ月の署名期間にそれを大幅に上回る六万一千余りを集め、市選挙管理委員会が審査している。

 脱原発依存を掲げて市長選に勝った橋下徹市長は、民意はとうに示されたとして住民投票には後ろ向きだ。しかし、住民投票の結果は市長が交代しても消えない。その重みを忘れてはいけない。

 片や東京での署名集めがはかどらないのは気掛かりだ。首長選がありずれ込んだ四市村を除き、二カ月の署名期間は二月九日に締め切られる。それなのに、必要な二十一万四千余りのようやく七割ほどに届いたばかりだ。

 意に沿わない結末を予想しておじけづく心情も分かる。だが、こんな機会に一歩前へ踏み出さないと、またぞろ原発政策の傍観者でしかいられなくなると思う。

 史上最悪レベルの事故が起きたのだ。反対派であれ、賛成派であれ、もはや内輪で気勢を上げて済ませている場合ではない。未来の世代のためにも声を上げたい。

この記事は 中日新聞 社説

 

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