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カルチャー 『恋する原発』発売記念ロングインタビュー 「僕たちが住んでいる社会はやっぱりおかしい」小説家・高橋源一郎と3.11

12月 15th, 2011 | Posted by nanohana in 5 オピニオン

日刊サイゾー 2011.12.15

 高橋源一郎の最新作『恋する原発』(講談社)は、「不謹慎」の塊のような小説だ。「3.11のチャリティーAVをつくる」「靖国神社は韓国も中国も関係なく祀られるようになった」「学校では文字を教えずに、セックスを教える」などなど、軽妙な語り口ながら、そこには思わず眉をひそめてしまうような描写が連発されている。世間の自粛ムードをまるで無視したかのようなその不謹慎さは、作家からの挑発にも読めてくる。

 どうしてこんな小説が生まれてしまったのか? なぜ、彼はこの作品を書かずにはいられなかったのか? そして、ここに描かれているものは、一体何なのか? 高橋氏を直撃した。

――そもそも、この小説はどのような意図で書かれたものなのでしょうか?

高橋源一郎(以下、高橋) 10年くらい前に、『群像』(講談社)で、『メイキングオブ同時多発エロ』という小説を2年くらい連載していました。これは2001年に発生した9.11米同時多発テロのチャリティーAVを作るという話でした。でも、全然うまくいかず、途中で連載を終わらせてしまった。その後、ずっと寝かせておいたんですが、この小説を途中で止めた理由がずっと分らなかった。でも、3.11が起こって、これを書けなかった理由が分かったような気がしたんですね。

――「書けなかった理由」というのは?

高橋 ひとことで言うと、9.11は他人事だったからです。だから、逆にすごく真面目な小説になってしまった。でも3.11は僕もある意味で当事者と言える。だからこそ、「原発なんて関係ないよ」とか「被災地なんて知らん」とも堂々と言えるんです。「しょせん他人事ですよ」と言えるのは、実は自分が”外”ではなく”中”にいる時なんです。そういう発言をすれば、当然、問題になるでしょう。何を言っても問題が発生するというのは、非常にいいことです。言論とはそういうことなんです。

――ご自身の”事件との距離感”というものが左右した、と。

高橋 3.11から最初の数日間のこと、覚えてます? 結構、明るかった。ニューヨーク・タイムズに東浩紀や村上龍とともに寄稿したんですが、論調はほぼ同じでした。「すさまじい被害にあったけど、国民はパニックに陥っていない。日本には閉塞感があったけど、これを機会に変われるかもしれない」。でも、そんな空気もいつの間にかもとに戻ってしまい、前よりひどくなってしまう。

――どういった部分で、前よりもひどくなったと感じますか?

高橋 暗くなってると思います。僕はTwitterをやっています。3.11の前のTwitterはまったりしていて、つまんないことを言える空間だったんです。でも、3.11以降、Twitterが「戦場」になってしまった。他人を攻撃するような言論が多くなり、みんながそういう相手を求めるようになった。

――「まったりする」余裕がなくなったことによって、他者を攻撃するようになってしまった。

高橋 もともとそんなに余裕はなかったんだけど、なんとなくあるような気がしてたんですね。「お金ないし景気悪いし、嫌だよね」と言いながらも、カタストロフィーは起こっていなかった。

 例えば、ある家族がいたとするでしょう。楽しく暮らしていたんだけど、ある日、お父さんの浮気がバレた。おじいちゃんの多額の借金がバレた。お母さんは難病だった。子どもは非行に走っていました。みんな実は隠してたんだけど、1つバレたらみんなバレちゃった(笑)。そうしたら「浮気したのはお前が悪いんだ」「よかれと思って借金したんだ」と罵り合いになってしまう。今回は、お父さんがラブホテルの鍵を落としたから発覚したんだけど、落とさなくても、遅かれ早かれ、すべて分かるはずだった。

――まさに、みんなが犯人探しのために互いを攻撃し合っているような雰囲気ですね。

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高橋 みんな、「自分は悪くない」と言いたいんです。誰かをディスる言論の中身は、「誰が悪い」っていうことと「俺は悪くない」っていうことの2つでできています。政府が悪い、エネルギーどうするんだって。沈没船の中で「誰が船を壊したんだ!」と首を絞め合いながら沈んでいくんです。

――つまり、高橋さんの見方としては、3.11以降、何かが変わったわけじゃないんですね。

高橋 もともと日本の社会には展望などなく、破滅を先伸ばしにしていただけなのかもしれない。原発って、その意味でとても典型的ですよね。放射性廃棄物をどうするんだという問題があったのに、「なんとかなる」って言い続けてきた。原発から出たゴミは東北のどこかに置いて、その代わりに金をばら撒いておけば、あとはもう知らない。沖縄の米軍基地も同じ構造ですよね。だったら、東京に置けばいい。基地も原発も全部東京に置いたら地産地消でしょ(笑)。成田を米軍基地にして、皇居や国会議事堂の地下を原発にすればいい。そうしたら厳重に管理するようになるでしょう、怖いから。

■「ヤバいものを見せない」という社会構造が創造力を奪う

――そのような現状認識で書かれた『恋する原発』ですが、作品自体はネガティブになることなく、とてもポジティブです。こうなったのは必然性があったのでしょうか?

高橋 小説は楽しくなきゃいけないと思います。今回の目標は「笑い」でした。怒りや悲しみにも、いい面はあります。けれども、それらは直截的な感情だから、思考停止になったり何も見えなくなってしまうこともある。「笑い」は俯瞰的になるんですよね。どんなことでも距離を取ればおかしいでしょ? 下がれば下がるほど、いろんなモノが見えてくるんです。

――いわゆる「カメラを引く」ような作業ですね。

高橋 血まみれで、倒れている人がいたら胸が痛む。けれども、カメラが下がっていくと、それは映画かもしれない。さらに下がれば「目指せ、(芦田)愛菜ちゃん」とか言っているママがいるかもしれない。

 カメラを引いていくことは、周囲を「認識」をしていく作業なんです。騙されてて本当に馬鹿だったねと、自分を笑うこと。そうしないと、今のこの空気に対抗できないだろうと思ったんです。

――一方で、『恋する原発』では、作品中に「服喪」についての言及もなされています。震災によって2万人が命を落とした今、死を考えることによって何を見いだせるのでしょうか?

高橋 さっきの話の続きで言うと、平穏な家庭はいろいろな問題を隠しています。お金とか、セックスとかを見せないようにして、日常生活を楽しく過ごしている。その中の1つが「死」ですね。テレビだと、陰部にモザイクがかかるでしょ。それから、死体と手錠にもかかる。陰部、死体、手錠。客観的に見たらすごく変な組み合わせです。あらゆる場所は映すのに、この国では、その3つは絶対に映らない。

――「ニューヨーク・タイムズ」のウェブサイトには遺体の写真がいくつも掲載されていて、国内でも話題になりました。

高橋 2万人が亡くなったのに、「大災害」という言葉だけで、日本には遺体の写真が1枚もない。死体を1体も見せないっていうのは異常ですよね。この社会の妙な雰囲気は、「ヤバいものは見せない」という社会の構造が原因なのかもしれない。空気なんて見えないのに、それを感じろっていうのはダメでしょう。ものを見ないということが、逆に想像力を失くしてしまうんです。

――本作で言及されている「1,000年後の子ども」というモチーフも、「死」と同じように普段は隠れている存在ですよね。前作『悪と戦う』(河出書房新社)でも、同じくまだ生まれていない子どもがモチーフにされていました。

高橋 こういうことを考えるのは、子育て中だからかもしれません。今、僕は60歳で、子どもたちは5歳と7歳。彼らが30歳くらいになった時には、僕はもういない。だから、彼らの未来は想像するしかない。この子たちはあと80年くらい生きるんだから、僕が死んだらバイバイっていうわけにはいかないでしょ。僕は、自分が死んでから50年後の世界について責任があるんです。

 僕たちは共同体の中に生きています。共同体は今生きている人だけのものじゃない。歴史的にいえば過去の人もいるし、未来の人もいる。現在の人間がエネルギーが足りないといって原発を使い、処理することのできない放射性廃棄物を生み出したり、国の借金を増やし続けたりしていたら、同じ共同体の未来の人たちに迷惑がかかるでしょう。

■3.11後に小説を書くということの意味

――震災後、あらためて、小説の役割が問われているように思います。高橋さんは、どのように考えていらっしゃるのでしょうか?

高橋 「小説の特性とは何か」と考えると、この世界にいること、この世界があることの不条理、人間はなぜ生きねばならないのか、といった形而上的な問題を扱うことだと思います。「この人が好き」という感情を表現することや、歴史の変動を描くのは映画でも可能かもしれない。楽しいコメディーは韓流ドラマでもいいかもしれない。こういう危機的な状況において、形而上的な問題を扱えるという小説の特性は、より発揮されるんじゃないでしょうか。

――ただ、震災を受けて、「フィクションよりも現実のほうがすごい」という言説が説得力を持ってきています。

高橋 3.11以降、読める小説と読めない小説が出てきました。実は、それは3.11以後に書かれたのか以前に書かれたのかは関係ありません。3.11以前に書かれていても、まるでこの現実に対応しているかのように書かれているものがあります。「僕たちが住んでいる世界はやっぱりおかしくないか?」という認識が根底にある小説は、3.11以降に読んでもやっぱり面白いんです。

――高橋さんはTwitterでも積極的に発言をされていますが、小説の言葉とTwitterの言葉に違いはあるのでしょうか?

高橋 Twitterでやっている「小説ラジオ」(不定期に深夜0時から行われる高橋自身の連続ツイートのシリーズ)の言葉ってストレートですよね。フィクションのように、多義的な言葉ではありません。フィクションのいいところは「これはどういう意味」と聞かれても、答えなくてもいいこと。読者は「作者の考えをもとにした別のこと」を考えることができるんです。だから、日常ではない舞台で考えられる、想像できる、という「空間」を提供するのが小説家の仕事だと思います。いわば、喫茶店みたいなもの。ものを考えるカフェ。ただ、横に死体が転がってたり、後ろのカップルがセックスを始めるかもしれないけど(笑)

――全然くつろげませんね(笑)

高橋 だから、日常じゃないんだけど、「結構面白いかも」って思ってもらえたらいいよね。

――お話を伺っていて、やはり『恋する原発』は、高橋さんの作品群の中でもとても意味のある作品なのではないかと感じました。例えば、デビュー作の『さようなら、ギャングたち』(講談社)では、「執筆時のことをほとんど覚えている」とおっしゃってられていましたが、『恋する原発』も、それと同じくらい高橋さんにとって重要な作品でしょうか?

高橋 僕の実質的なデビューは『さようなら〜』ではなく、『ジョン・レノン対火星人』(講談社)という作品です。『さようなら〜』は、優しさと美しさを求めて書いた小説でしたが、『ジョン・レノン〜』はできるだけ汚く書こうとしていた。文学も作家もみんな死ねばいいと思って書いたんですよ。

 そう、だから、自分を間違えていたのかもしれない。僕はやっぱり『さようなら〜』のほうではなく、こっち側だった。今の僕は、妙に作家っぽいし、評論もいっぱい書くし、社会的発言もする。キモいよね(笑)

――その意味では『恋する原発』は、『ジョン・レノン〜』の原点に戻ろうとした作品なんですね。ちなみに、次回作のご予定はあるんですか?

高橋 実は、いま少々ウツ気味なんです。何も書きたくない。この小説は世間のひんしゅくを買うかもしれない。でも書いているときは楽しかったんですよね。その反動ですごく疲れてしまって……。こういうことを楽しく書いちゃう自分は人としてどうなんだろう、と思うところもあって。書いているときはこれしかない、こういう方法が正しいと思って書いているんですが、ときどきカメラを引いてみると、「これでいいの?」と自問自答してしまう。これ自体、爆笑だって思ってしまう。そういう意味では、作家ってみんな、二重人格なんですね。 (取材・文=萩原雄太[かもめマシーン]/撮影=尾藤能暢)

●たかはし・げんいちろう
1951年広島生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で「群像」(講談社)新人長編小説賞優秀賞受賞。88年、『優雅で感傷的な日本野球』で第1回三島由紀夫賞受賞。著書に『虹の彼方に』、『ジョン・レノン対火星人』、『ペンギン村に陽は落ちて』、『日本文学盛衰史』など。05年より明治学院大学国際学部教授を務めている。

 

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