毎日新聞 地域ニュース > 山形 2011.11.11~連載
1 往復
◇福島を捨てられない サテライト保育の選択
10月上旬。米沢市の鬼面川では、子供たちが冷たい水に足を浸して、夢中で網を動かしていた。秋の日差しが川面できらきらと光る。「取れたよ」。魚取り名人の桜子ちゃん(5)は小魚を3匹もすくい、満足そうに笑っていた。
福島市の託児所「青空幼児園たけの子」は、10月から米沢市を拠点に福島から通う「サテライト保育」を始めた。幼児園の保育理念は「自然の中で五感を使って遊ぶことを中心にした保育」。福島第1原発事故はその理念を根底から揺さぶった。
「浜通りの農作物が風評被害で売れなくなるだろうな。事故直後はそのぐらいの認識だった」
幼児園の辺見妙子代表(50)=福島市=は振り返る。4月下旬、文部科学省は学校などの屋外活動制限基準を年間20ミリシーベルトとした。「子供が大人と同じ基準なのはおかしい」。危機感を覚えた。
辺見さんが自宅を開放して託児所を始めて、今年で3年目。02年に青空保育を実践する保育園を紹介したドキュメンタリー映画に出会った。「私もやってみたい」。通信講座で2年間学び、08年11月、保育士の資格を取得した。
今年度は園児が8人になる予定で、認可外保育所として県に補助金申請ができるはずだった。昨年度から残る5人の子供たちは全員福島県外に避難した。
休止が続いたが、5月の大型連休明け。2年間通っていた園児の母親に「子供を通わせたい」と言われた。知人に借りた測定機を持って、放射線量の低 い場所を探し歩いた。慣れ親しんだ遊び場所は全部納得できる線量値ではなかった。「これでは外遊びはできない。土に触って、草花を摘んで。たけの子の良い ところは、これでなくなってしまった」
5月、取材に来た新聞記者が園児の男の子に聞いた。「今一番何がしたい?」。園児は「公園でブランコに乗りたい」。「今どんな気持ち?」「悲しい」。辺見さんは胸を突かれた思いだった。
10月から、元々幼稚園だった施設を所有者らの好意で間借りしている。辺見さんらスタッフは毎日、片道1時間以上かけて福島市との往復を続けている。線量を気にせず、遊べる日常がいとおしい。
現在預かる園児は3人。全員米沢市に避難した福島市の子供たちだ。
辺見さんは「福島県内の避難できない子供たちにも、避難中の子供たちにも、米沢で自然とふれあってほしい」と語る。「サテライト保育」というアイデアが、もっと広がっていけばと願っている。
「どうしてサテライト保育なのか? 米沢市に移転するという考え方ではだめなのか?」。取材での質問に、辺見さんは「私は福島が大好きだから、 やっぱり福島を捨てられないんですよね」。泣きながら答えた。「いつまでやれば良いのか分からない。それでも子供たちは守りたい」
◇ ◇
東日本大震災から8カ月。県内に被災地から避難する人は今も増え続けている。「中ぶらりん」な気持ちを振り切って、避難先で新たな一歩を踏み出し た人がいる。地元に帰る決断をした人もいる。目を閉じて浮かぶふるさとの景色を思い続ける人もいる。異郷での冬を控えて今、何を思うのか。疎開している人 の声を聞いた。=つづく(この企画は安藤龍朗、前田洋平が担当します)
2 苦渋の決断
◇子供と離れたくない 「準社員」誘い断り南相馬へ
避難を続けるべきか帰宅すべきか--。8月25日、山形市内で開かれた福島第1原発事故に伴う東京電力の避難者向け説明会。福島県南相馬市原町区から家族4人で山形市内に避難する今野勝幸さん(38)は深くため息をついた。
そう遠くなく緊急時避難準備区域が解除になることは報道で知っていた。説明会では「解除になって避難の必要性がなくなったら補償はどうなるのか」という質問が相次いだ。納得のいく回答はなかった。重い決断になりそうで気持ちが沈んだ。
5月に山形市に避難し、市内の工場でアルバイトの仕事を見つけた。その後、上司から「準社員にならないか」と誘われた。ありがたい申し出だった。5歳と 3歳の子供を抱えており、社会保険や扶養手当などが加わることを考えれば受けた方がよいが、それでも--。返事を保留していた。
今野さんは南相馬市で勤めていた食品製造工場が閉鎖されるため新たな就職先を探している時に震災に襲われた。
妻(41)は同市の介護施設に勤め、収入は安定している。施設は避難準備区域内にあったため事業を休止していたが、震災以後は休職手当が出ていた。しかし、避難準備区域が解除されれば職場が再開し、妻は呼び戻されてしまう。
「私が準社員になれば、少なくとも1年くらいは山形にいなくてはならない。同時に避難区域が解除されれば妻も南相馬の職場に戻るか、辞めて山形にとどまるか。一気に決断を迫られたのです」
説明会があった日の夜、2人の子供が寝静まってから夫婦で話し合った。今野さんが準社員になったとして、その収入だけで家族4人を養っていけるだろうか。
妻は「子供とは離れたくない」という。だからといって、管理職の立場から仕事を投げ出すわけにはいかなかった。
妻だけ仕事のために避難先から実家に戻る「逆単身赴任」も浮かんだ。自信を持って「これが正しい」と言い切れる結論は出せそうにないが、決断を迫られ た。「家族は離ればなれになるべきではない。避難準備区域が解除されて妻の職場が再開したら一家で戻ろう」。夫婦はそう決めた。
9月30日。国は同区域の指定を解除した。
◇ ◇
来年3月、南相馬市に戻る。帰宅に備えて、自宅の周囲の放射線測定を専門の分析機関に依頼した。「お金はかかるけれど子供と住む場所だから少しでも放射能汚染の正確な情報を知っておきたい。正直言って怖いです」
今野さんは言う。「子供を育てるために仕事は必要。でも、仕事のために子供を危険にさらすことになるなんて皮肉ですよね」。その声は震えていた。=つづく
3 温度差
◇「放射線」に苦しむ母 娘の異変に心乱れる
「最近、外に洗濯物を干している?」。放射線の人体への影響について、福島県に住む母親たちの認識はさまざまだ。同県郡山市の料理教室講師、中村美紀さん(35)は認識の「温度差」に苦しんだ。どうすれば、お互いを傷つけずに相談や悩みを打ち明けられるのか。
洗濯物を外に干すかどうかを聞くことが、中村さんが考え出した方法の一つだった。相手の答えが「いや、干していない」なら、相談できる。「うん、干しているよ。大丈夫でしょ」なら、別の話題にする。
ママ友同士の何気ない会話ひとつに気を使う。中村さんは「原発事故でコミュニティーが分断された」と感じている。
元々原発や放射能に関心があったわけではない。福島第1原発3号機の爆発があり、翌3月15日、茨城県に避難した。「でも、福島の状況がどうなの か、県外にいても分からない。いても立ってもいられなかった」。2週間で自宅に戻った。自宅から原発まで約60キロ。「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞か せ、不安をあまり感じないようにした。
異変は子供たちの体調に現れた。「政府は『ただちに健康に影響はない』と繰り返したけど、ただちに影響がありました」。6月のある日、9歳の長女 の鼻血が止まらなくなった。さらさらした鮮血が流れ、ティッシュが1箱なくなった。4歳の次女は口内炎が今も治らない。娘3人とも、目の下にくまができ た。中村さんの心は乱れた。
幼い娘たちに親としてできることは何か。インターネットや本を通じて放射線の影響を学んでいったが、「何が正しくて、何が間違いなのか」の見分けはつかなかった。
内閣官房参与だった小佐古敏荘(こさことしそう)・東京大教授が小学校の校庭利用基準の放射線量が高すぎるとして政府に抗議し、辞意を表明した ニュースは衝撃だった。横でテレビを見ていた会社員の夫(38)が言った。「この話は本物だ。子供を逃がさないとだめだ。避難しろよ」。自主避難を考え始 めた。
6月、小学校から帰ってきた長女が訴えた。「ママ、みんなスカートをはいているのに、どうして私はだめなの? おしゃれしちゃだめなの?」。その涙に胸をふさがれた。「何でこんなことを娘に言わせないといけないんだろう」
娘が道路脇で摘んだ四つ葉のクローバーが喜べない。「泥だらけになるまで遊ばせるのが我が家の方針だったのに。側溝付近は線量が高いから、子供に『なるべく道路の真ん中を歩け』って。やっぱり、それはおかしかった」
悩んだ末に8月から、山形市のアパートに娘3人を連れて自主避難した。「子供にだめを言わなくて良くなった」という普通の生活。心が解放されたように感じた。
その一方で、日を追うごとに成長する2歳の末娘の様子を、夫が見られないのが切ない。「夫が命を削って働いている」と思うと罪悪感すら覚える。
「福島県内にいても、県外に避難しても、母親たちは苦しんでいる」。そのことを世間に知って欲しいと中村さんは強く願う。いつ帰れるのかは分からないが、これからも子供たちを守り抜こうと決めている。=つづく
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