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卓袱台返して菅笠ひとり旅

6月 18th, 2011 | Posted by nanohana in 2 STOP 原発 | 3 政府の方針と対応 | 5 オピニオン

日経ビジネス
「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」

  • 小田嶋 隆 6月17日

イタリアで6月の12日から13日にかけて行われた原子力発電所の再開の是非を問う国民投票は、94.05%という圧倒的な反対票を集めて幕を閉じた。結果を受けて、ベルルスコーニ首相は、原発との決別を約束している。

わが国では、自民党の石原伸晃幹事長が、翌14日の記者会見で、この件について以下のように述べた。
「あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは、心情としては分かる」
驚くべき言及だ。

石原さんが「ヒステリー」という言葉を、「興奮・激情により冷静な判断力を喪失している状態」という辞書に載っている語義そのままの意味で使ったのだとすると、彼は、イタリア国民を「愚民」呼ばわりにしたことになる。これはよろしくない。
いくらなんでも、国政の中枢にある人物が、公式の会見の場で、こんな失礼な発言をカマして良いはずがない。幹事長は、言葉の選び方を誤った。おそらく、 石原さんは、大きな数字を目の当たりにして、単独ヒステリー状態に陥っていたのだと、そう考えてさしあげるのが彼のためであり、日本のためでもあると思 う。

今回は、原発について触れざるを得ない。そういう雲行きだ。
原発は、イタリアにおいてそうであったように、わが国でも、最も主要な国民的関心事になっている。当然だろう。当事国なのだから。

原発の是非をめぐる議論は、事故発生以来、ほとぼりがさめるどころか、日に日に過熱して現在に至っている。おそらく、この問題は、今後、郵政民営化の時と同じようなワンイシューの争点になるだろう。
つまり、自民VS民主や、地方分権or中央集権、あるいは小沢対反小沢といった従来からの対立軸は、すべて原発の是非に包摂されてしまうということだ。
で、その国論を二分する葛藤の中心に菅首相がいる。
不思議なめぐりあわせだ。

原発をめぐる議論は、菅首相の進退にも影響している。というよりも、いまや、菅首相の政治生命は原発論議の周辺にしか残っていない。
早期退陣を主張する勢力は、菅首相が、ここへ来て急速に脱原発への傾斜を深めていることについて、「原発を延命の具にしている」という言い方で、首相の政治姿勢を批判している。

批判は、大筋において当たっていると思う。
実際、菅首相は、脱原発というカードをちらつかせることで、四面楚歌の状況を、形勢不明の延長戦に持ち込むことに成功しつつある。ということはつまり、 原発は、切り札になったわけだ。菅さん自身がジョーカーに化けたと申し上げても良い。エースでもなく、キングでもなく、絵札でさえなかった菅さんが、ある 日突然、ゲームの展開を支配するトリックスターに変身したのである。

さてしかし、批判は批判として、現実的に考えれば、政治家が特定の政策ないしはビジョンを自身の政治生命の延命に利用することは、特段に不道徳な ことではない。なんとなれば、そもそも政治というのは、ある定まった理想を実現するための手段を意味する概念であって、とすれば、政治を業とする者が、権 力を維持するために政策を利用することは極めて当然の所行だからだ。権力は政策の道具になり、政策は権力の道具になる。そうでないと理想は実現しない。

興味深いのは、「脱原発」という立場を、自らの政治生命の延長につなげることのできる政治家が、どうやら、現状では菅さん以外に見当たらないことだ。
理由は、菅さんが、無力だからだ。
「無力」という言い方は、誤解を招くかもしれない。言い直す。要するに、菅直人という政治家は、通常の意味で言う権力基盤とは無縁なところから出てきた人だということだ。

菅さんには人脈が無い。頼りになる親分の庇護のもとにあるのでもないし、号令ひとつで馳せ参じる子分をかかえているわけでもない。同僚議員の人望もない。資金パイプもない。背後から支えてくれる団体も持っていない。
と、こうして並べてみると、どうにもお話にならないリーダーであるように見える。が、ただひとつ、彼には、時流を読む不可思議なセンスがあった。だか ら、日和見と言われ、風見鶏を揶揄されながらも、いつの間にやら、スルスルと、あらあら不思議わらしべ長者みたいにして権力の頂点にたどりついてしまっ た。
菅さんは、徒手空拳の日和見だったからこそ、権力抗争の真空の中に立っていることができた。おそらく、そういうことなのだと思う。偉大なるごっつあんゴーラー。元イタリア代表のスキラッチを思い出す。

私は、菅直人という政治家を必ずしも高く評価していない。個人的な好き嫌いを述べるなら、嫌いな側の半分に分類せねばならないと思う。
が、それはそれとして、私は、ここしばらく、従来の見方を改めつつある。どういうことなのかというと、菅直人という無手勝流の真空政治家が宰相の座にあ る時に、この度のような空前の災害が起こったのは、もしかすると天の配剤であるのかもしれない、というふうに思い始めているのだ。

現状、脱原発ないしは反原発を旨とする人々は、とりあえず菅さんを支持しているように見える。というのも、ポスト菅が誰になるのであれ、その人物 は、必ずや菅さんよりは原発寄りの政策を選択するはずだからだ。とすれば、余事は措いて、ここは一番、菅さんにがんばっていただくしかない。猫の首に鈴を つけに行くネズミは、局外者でなければならない。

菅さん以外の有力な政治家は、民主党に所属する議員であれ自民党の領袖であれ、いずれも、原発と簡単に絶縁できる立場にはいない。
というのも、わが国の政治家として、多少とも地に足のついた政治活動をしてきた人物が、電力会社と無縁であることは考えにくいからだ。

いや、私は、「利権」や「癒着」について話しているのではない。「電力マフィア」がどうしたとか、「原発ファミリー」が裏から手を回して云々といったタイプの陰謀論を展開しようとしているのでもない。
そんな極端な見方をするまでもなく、原発は、あまりにも巨大で、その光はあまりにも明るい。だとすれば、影ができるのは、当然の帰結なのだ。

エネルギー政策は、国策の前提に属する基本線だ。
言ってみれば、卓袱台だ。
政治家は、国土という卓袱台の上に、食器を配置し、調味料を並べ、ふさわしい料理を配膳する仕事を担っている。
そんな彼らとて、エネルギーや国防のような「百年の計」(←つまり安易に改変できない政策)には、簡単には手を出せない。とりあえずは「継続性」を第一 に、前例を踏襲しながら、当面の整合性を維持して行くしかない。かくして、卓袱台はいつしか無謬の前提になる。誰も、卓袱台抜きで食事をすることはできな い。というよりも想像することすらできない。

卓袱台をひっくり返すことができるのは、テーブルマナーを知らないならず者だけだ。
国策の根本と無縁なところで政治活動をはじめ、補助金の確保や町おこしに心をわずらわされることなく選挙戦を戦ってきた例外的なアウトサイダーだけが、 前提を覆すことができる。身内の人間には、心のこもった手料理の並んだテーブルをひっくり返すことなんて、思いもおよばない。だってそれは団欒の崩壊以外 のなにものでもないから。

私は、菅さんが清潔だとか、素晴らしい人格者だと言っているのではない。菅さんには菅さんのマキャベリズムがあるはずで、そのマキャベリズムは相応に功利的で、必要に応じて汚れてもいるはずだ、とそう思っている。
が、菅さんの功利は、原発とあんまり関係がない。そこのところが、現状において、強みになっているはずなのだ。

アウトサイダーの立場を説明することは、簡単な作業ではない。
なぜなら、われわれのほとんどは、様々な場面においてインサイダーであり、自分で意識することすらなく、インサイダーとしてふるまっているからだ。
インサイダーは、アウトサイダーに圧力をかけている自覚を持っていない。
へたをすると、インサイドの外側に、アウトサイドがあるということすら知らずに暮らしている。
が、アウトサイダーは、やはり圧力を感じているのである。

ひとつの例を挙げる。
私は、ごくたまに、サッカーについての原稿を書く者だ。が、レギュラーなサッカーライターではない。業界にとってはアウトサイダーだ。
その私が、たとえば、公式なインタビュー記事を書くとする。
と、ここに、圧力が生じる。
圧力は、私が感じているだけで、具体的に誰かが明示的に言葉としてそれを私に投げかけるわけではない。
だから、圧力は、無いと言えば無いとも言える。でも、私は、明らかにそれを、感じている。感じざるを得ないのだ。

私のような立場の者が、プロサッカーの選手とコンタクトを取って、練習後の貴重な時間を割いてもらうためには、それなりの準備と手続きが必要にな る。具体的には、何人かの人間が間に立って、先方の意向を確認し、広報がスケジュールを調整し、編集部が場所を取り、紹介者が各方面に挨拶をすませて、そ れでようやく対面が実現するのだ。
その貴重な一時間をどう運営するのかは、私の胸先三寸ではある。どんな記事を書くのかも私の裁量にまかされている。
でも、骨を折ってくれた人や、間に入ってくれた人々のことを思うと、記事の範囲は、おのずと限定される。彼らの顔を潰すような原稿は書きにくい。私とて鬼ではない。鬼才ですらない。当たり前だが。

選手も選手で、掲載直前になって、写真にNGを出してきたりする。
「契約しているメーカーとは別の会社のシャツのロゴが写りこんでしまっているから」
というのがその理由だ。
メーカーからの圧力?
違う。そんな見え透いたクレームをつけてくるメーカーは無い。義理堅いT選手が、クライアントの担当者の立場を配慮(だって、ボクがB社のシャツを着て る写真が雑誌に載ったりしたら、◯◯さんの顔がまるつぶれじゃないですか)して、言い出したことだ。彼は、臆病なのではない。強欲なのでもない。T君は気 持ちの優しい青年で、だからこそ、周囲の空気を大切にしている。そういうことなのだ。

記事は、提灯記事になる。
嘘を書いているわけではない。私とて、T選手のファンだからこそ、その仕事を引き受けたのであって、はじめからネガティブな記事を書く気持ちは持っていない。
でも、記事は、微妙に腰のひけた出来上がりになっている。このことは、否定のしようがない。

たとえば、
「右サイドより真ん中でプレーしたいと思うことはありませんか?」
という質問に、T選手は黙りこんでしまう。
考えていることをそのまま口に出すと、戦術批判と受け取られかねないからだ。
気がついて、質問を変える。もう少しヌルい質問に。
「練習で一番気を付けているのはどんなことですか?」
とか。
戦術の質問は、はじめから無かったことにする。そうやって原稿ができあがる。チーム戦術にも、同僚選手への不満にも触れていない、八方丸く収まる、ぬるい原稿が、だ。

圧力は、必ずしも脅迫を意味していない。癒着や利権や利益誘導や保身でもない。
もちろん、そういうものが圧力を生むことはあるのだろう。
が、多くの場合、圧力は、悪意の無いところから生じる。しかも、圧力の種は、圧力をかけている本人たちがまったく意識していない動作の中に宿っている。そういう空気の中でわれわれは暮らしているのだ。

原発が建っている町には、当然のことながら、原発で働く人々がたくさん住んでいる。彼らには家族がいる。友達もいる。同じ学校のクラスに、原発や関連の施設で働く親を持つ子が何人かいれば、クラスの雰囲気は、おのずと、原発に対して容認的にならざるを得ない。
「臆病」や「ものほしげな心」がそうさせるのではない。われわれが生まれつき備えている「思いやり」や、「心遣い」や「惻隠の情」が、時に、ありのまま の感情を口外することをさまたげるのだ。それどころか、圧力は、特定の出来事に対して、特定の感情を抱くという精神の自然な動きを抑圧する。
実際、原発城下町に住む人間が、原発についてのネガティブな情報をあえて口にしないのは、普通の感覚を持った日本人が、太った隣人に対して
「君、太ってるね」
とわざわざ直言しに行かないのと同じことで、極めて人間的な、動機としては至極良心的な反応なのである。

政治家も例外ではない。選挙区に原発があり、所属する党の基本政策がある中で、どうやって原発に反対できる?
できるはずがないではないか。
補助金がなくても、癒着や献金や選挙協力がなくても、恫喝や無言電話がやってこなくても、普通に選挙区で政治活動をしながら後援者と関係を取り結んでいれば、政治家は、余計な面倒を避けるべくふるまうようになる。

だから、原発のような巨大な存在は、あえて厳重な緘口令を敷くまでもなく、普通に人員を雇用し、賃金を払い、法令通りの補助金を供給しているだけで、結果としては、あらゆる周辺者を黙らせることができるものなのだ。

大男は、恫喝などしない。大きな声を出すこともしない。眉根を寄せることさえしない。ただ、おだやかな表情でまっすぐに歩く。そうしているだけで、人々が立ち止まり、左右に分かれ、ひとりでに道ができるのだ。

原発は、周辺国にも微妙な圧力を及ぼす。
一定数の原子力発電所が一定時間稼働していれば、その「稼働している」ということそのものが圧力になる。
核燃料廃棄物の蓄積と、原子力発電所の運営技術を通して
「うちの国はその気になればいつでも核武装できるんですよ」
というメッセージを、近隣諸国に笑顔で届けることができるからだ。
考えすぎだ、と?
国際関係のある部分は、仮想敵国に余計なことを考えさせることで成り立っている。

麻雀をやっていて、たとえば、トイメンの男がハクとハツをポンしていたら、残りの手牌に何があるのかはともかく、こっちとしては一応警戒しないわけにはいかない。普通の人間はオリる。よほどの事情が無い限りは。
と、ハク&ハツを晒しているトイメンの男は、戦わずして敵を戦意喪失に追い込むことに成功したことになる。勝負師として、これほど痛快なことはない。

政治家も、同じだ。
外交交渉に当たって、原発の稼働実績という圧力を背景にやりとりをするのと、原発抜きで相手に当たるのではまるで違う、と、かれらはそんなふうに思い込んでいる。相手も、たぶん。だから、原発を止めることは、これは本当に容易なことではないのである。

アウトサイダーでいることもまた、別の意味で、容易な人生ではない。
菅直人という政治家が、自らの信念に従ってアウトサイダーの立場を選んだのか、単に力不足のゆえに結果として傍流を歩いてきただけなのか、そのあたりの事情はよくわからない。
が、とにかく、この機会を逃したら、脱原発はできないという、そのことだけははっきりしている。

菅さんという一見眠そうなアウトサイダーが原発に引導を渡すというストーリーは、こうして考えてみると、なんだか非常に魅力的に見える。
「まれびと」(流れてきた客人、流浪の異郷人)が、村に厄災をもたらす怪物を退治するという、神話の話型にもかなっている。

ニュークリアを分解して、ニューでクリアなエネルギーを作る。たしかに、お伽話じみている。このお伽話を実現するためには、石原さんの言う、「集団ヒステリー」(←地すべり的な世論の爆発)が必要なのかもしれない。
面白そうだ。
私は乗るつもりだ。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

日経ビジネス 小田嶋隆のピース・オブ・ア・警句




 

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