東スポWeb 2011.12.12
弁護士で東京電力記者会見をほぼすべて取材してきた日隅一雄氏が、7日に開かれた自由人権協会の例会で雑誌「世界」の1月号の注目記事を指摘し「事故が2つ起きていたら対応できない。東京は死の町になっていた」と語った。
その記事とは「東海第二原発 なぜ廃炉にしなくてはならないか」。元朝日新聞記者のサイエンスライター添田孝史氏が書いている。
3月11日の大地震で東海第2の原子炉は自動停止したが、外部電力もストップ。3台あった非常用ディーゼル発電機のうち2台が作動し、崩壊熱を発し続ける核燃料を冷やすことができた。
だが、「メルトダウンの危機はぎりぎりで回避されていた」のが実情で、記事によると発電所を運営する日本原子力発電の広報室は「福島第一の事態になった可能性は否定できなかった」とコメントしている。
詳しい内容は書かないが、一つ間違えば大惨事が起きていた可能性を当事者が認めたことは衝撃的と言っていい。東海村から30キロ圏内には約100万人が住み、東京までの距離は110キロぐらいしかない。
福島と東海村のダブルで火の手が上がったら、収束作業に人手や資材が足りなくなるだけでなく、風向きによっては東京から大量の避難者が出る事態となる。
東海村の村上達也村長は同誌に「背筋が凍った」と話している。
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東海第二原発 なぜ廃炉にしなくてはならないか
添田孝史
東京駅から115キロに位置する東海第二原子力発電所 (茨城県東海村)。首都圏唯一の原発である。
1999年に東海村でおこったJCO臨界事故は、今も記憶に新しい。しかし、その事故の経験が福島での対応に活かされていないと、東海村長の村上達也氏は危機感を募らせる。
じつは、3月11日の大地震および津波によって東海第二も「危機一髪」の状態にあった。もし茨城県が独自に津波地震を想定しなければ、あるいは津波がもう少し高ければ、福島第一原発と同じ事態に陥っていたかもしれない……。
村長が廃炉を訴えるに踏み切った、具体的な根拠とは何か。そして、原発を抱える自治体として、「廃炉後」をどう見据えているのか。東海村長のインタビューを交えつつレポートする。そえだ・たかし サイエンスライター。元朝日新聞科学医療部記者。1964年生まれ。『生かされなかった教訓 巨大地震が原発を襲った』(朝日文庫) の第4章「原発震災」を執筆。
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