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東京新聞「こちら特報部」 10月6日

1980年代から2008年夏まで、足掛け10年以上にわたって全国の原発を渡り歩き、プラント建設や定期検査に従事してきた60代の元作業員が、自らの体験を「原発放浪記」(宝島社)と題した手記にまとめた。「当時の自分は本当に無知だった。今となっては、気味が悪くてもう働けない」と振り返る。そのワケを尋ねると-。 (鈴木泰彦)

「東京電力福島第一原発の事故後、『低線量の被ばくならたいしたことはない』と学者がメディアに話していると知り、腹が立った。専門家を名乗るなら、そんな無責任なことを言ってほしくない」
静岡県御前崎市の中部電力浜岡原発すぐそばの喫茶店で、取材に応じた川上武志さん(64)の言葉には、健康不安を抱える“原発被ばく者”としての怒りがにじんでいた。

出身は岡山県倉敷市。原発とのかかわりは八〇年、「協力会社」の下請け作業員として、四国電力伊方原発2号機(愛媛県)の建設工事に派遣されたのが最初。八二年から定期点検中の原発にも派遣されるようになり、使用済み燃料プールの除染や配管の交換工事など、放射線管理区域内で仕事をするようになった。
原発で働く作業員の被ばく履歴を、一元的に管理している財団法人放射線影響協会の放射線従事者中央登録センターが保管している記録には、東北から九州まで各地の原発計六カ所での川上さんの勤務歴とともに、作業で被ばくした放射線量が載っている。
それによると、川上さんの累積被ばく線量は二七・一七ミリシーベルト。厚生労働省は福島原発事故に関して、作業員の被ばく線量上限を一〇〇ミリシーベルトから二五〇ミリシーベルトに引き上げた。ただ、川上さんの数値は正確とはいえない。なぜなら川上さんは過去、被ばく線量を測る線量計を着けずに管理区域で作業をしたことが何度もあるからだ。
定期検査中の関西電力美浜原発(福井県)で働いていた八三年のある日。元請け会社の監督者から、首にかけていた線量計を外すよう言われた。その場にいた同僚数人は全員、その“指令”を拒まなかった。「定められた被ばく線量を超えてしまうと、以後、仕事ができなくなってしまう。私以外は、監督者を含めその時点ですでに上限ぎりぎりだった」

川上さんは、数値に余裕があったが「一人だけ拒否して、密告するのではないかと疑われるのが嫌だった」ため、素直に従った。その後、同原発だけでさらに四回、線量計を着けずに管理区域内で作業にあたった。「外して作業するのは特別なことではなく、とても拒めるような雰囲気ではなかった」と話す。
川上さんが原発関係の仕事から退いた後の〇九年、大腸がんが見つかった。診断結果は「ステージII」。手術後の経過はよいという。

現在、地元の労働基準監督署に労災申請し、その結果を待っている。「そもそも、定められた上限値が安全という確証はあるのか。個人差はないのか」。福島で被ばくしながら事故処理にあたる作業員たちを思うと、疑念は消えない。
「若いころは放浪癖があった」という川上さんが原発で働くようになったきっかけは、沖縄で暮らす費用を稼ぐためだった。ところが、“渡り鳥”のようにあちこちの原発をめぐる生活が旅の欲求を満たしたことや、午前と午後合わせて実質三時間あまりという「実労働時間の短さ」にひかれ、計画していた資金がたまった後も原発で働き続けた。
「今から思うと、被ばくの危険性について何も知らなかった」と、過去の自分を正視する。
原発で働く作業員は全員、人体に対する放射線の影響などを事前に学ぶことになっている。当時は現場を移るたび、二日間にわたってこうした安全教育の機会が設けられていたが、その実態は「決められた範囲内であれば被ばくしても安全だとひたすら
繰り返し、作業員を洗脳するための時間だった」と振り返る。

現場では入れ墨をした人や、さまざまな経歴を持つ人たちが作業員として働いていた。共通していたのは、川上さんを含め、放射線の知識がない素人がほとんどだったことだ。
そんな作業員を集めた安全教育の席で、講師を務めた電力会社の社員を名乗る男性が、被ばくの危険性について詳しく説明しなかったばかりか「低線量の放射線は害ではなく、むしろ健康のためによいと言われています」と話したことを、川上さんは今も鮮明に覚えている。
「素人を危険が伴う現場で働かせる以上、正しい知識を与えるのは必須であり、安全教育もそれが目的のはずだ。真実を語らなくてはいけない立場の人間がとんでもないウソをついていた。なのに、当時の私は全く気づかず、素直に信じ込んでしまっていた」

八六年にそれまで勤務していた下請け会社を辞めた川上さんは、しばらくタイで生活した後、帰国。〇三年から主に浜岡原発で、低レベル放射性廃棄物の仕分けを行う臨時作業員として、再び働き始めた。離れていた間にチェルノブイリ原発事故や東海村JCO臨界事故もあった。しかし、久しぶりに戻った現場の雰囲気は、以前と全く変わっていなかったという。
「チェルノブイリ事故について、元請け会社の社員に聞くと、『日本は管理体制がしっかりしていて技術者の質が高く、炉の形式も異なる。日本では絶対に起きない』というばかり」。阪神大震災も起きたが「大地震にも耐えられると言われた通りに、みんな信じ込んでいた。能天気で、原発の安全性を疑う人は現場にいなかった」。

〇八年に臨時作業員を辞め、がんを患った後も、御前崎市内にとどまっている。労災申請などの準備を進めながら被ばくの恐ろしさについて調べ、自分が働いていたところが人体に害を及ぼす可能性のある危険な場所だったことを初めて理解した。手記を書いたのは、負の側面を含めて、多くの人に職場のありのままを知ってほしかったからだ。

原発に批判的な考えを持つようになった川上さんだが、ともに各地を渡り歩き、今も原発で働くかつての同僚とは付き合っている。先日、福島の事故が話題に上った際、元同僚の一人は「福島は特殊な例。浜岡は該当しない」と言い切ったという。
「原発の運転は、定期検査時などに作業員の被ばくなしでは成り立たない。その危険性を認識していたら、あんな現場では誰も働きたがらないはず。十分な知識を与えられない人たちが支えている構図は、今も変わっていないのではないか」

<デスクメモ> 原発の安全神話は、下請け作業員の危険を隠して作られていた。それでも野田政権は原発維持に傾こうとしている。黙々と仕事をするのではなく、黙々と官僚の言いなりになるのがこの政権のカラーなのか。まさか発電量の50%を原発で賄うエネルギー基本計画の「見直し」まで撤回するつもりでは…。 (立)

東京新聞
ブログ より転載

 

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