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【伊達市】仁志田市長「放射性セシウムがあることを前提にコメをつくり、検査して汚染米を市場に出さない仕組みが重要だ」

2月 16th, 2012 | Posted by nanohana in 未分類

来季米の作付について、今季100ベクレルを超えたコメが出た地域を作付制限するかどうか、国は制限したい意向だが、自治体と相談するとして明快な答えを出していない。
仁志田伊達市長は、おそらく制限がされるだろうという見通しの下、「今のままでは市内の6割を超す面積で作付けが出来ず、影響が深刻過ぎて従えない」として、方針の転換を求めていくことを明らかにした。

「放射性セシウムがあることを前提にコメをつくる」という発言は波紋を呼んでいるが、根本的には国がしっかりと責任をもって放射性物質に汚染されるような食品は生産させないという方針を打ち出す必要がある
国が無責任なので自治体の悩みは深い。
本来は国が責任をもって作付できない農家を補償すべき(させるべき)だが、それがないので農家は作付せざるを得ない。
一方、消費者には放射性に汚染されるとわかっていて生産をする生産者を許せないという気持ちが当然ある。

伊達市長の発言が消費者に理解されるとはとても思えない。
国がこのまま無責任な不作為を続けるならば、いずれ、福島の自治体や生産者は非難の矢面に立たされるようになるだろう。被害者であるにもかかわらず。

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→ 「作付け不能6割超/伊達市 方針転換要望へ」 朝日新聞 2012.2.8

 

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One Response

  • 北の国から says:

    案外、これは一歩前進なのかも知れませんよね、問題の福島県・伊達市という役所や同市長にとっては。少なくとも、これはセシウムであれプルトニウム、ストロンチウムその他であれ、地元の農地には放射性物質という汚染物質が存在することを「前提」にしよう、と言いたいもののようです。

    そうした前提を立てるなら、やはりいわば「休業」を余儀なくされる農民はテプコや国に対してその分の賠償を求める動きに傾くでしょうし、福島県当局も国もテプコも安閑としていられなくなりそうです。
    もし水田が放射能汚染されている事実が「前提」となると、昨シーズンは余り大きな農民の反抗・抗議もなしに過ごせたテプコも国も、足元がぐらつきだすことになりそうです。作った放射能汚染のコメは直接・間接に当の福島県の農民も消費することになるわけですから、普通の農家ならむしろ来シーズンは休業して、もらった賠償で安全な地域産のコメを買うことを選択するわけですが、そうなると農業県とされる福島県の全体が大揺れになりかねませんね。昨秋、見切り発車も良いところで福島米の「安全宣言」を発した福島県の佐藤雄平知事など、改めて責任を問われることなるでしょう。

    この伊達市は、つい先日ここでニュースとして取り上げられた通り、市役所の農政当局者が頑迷な官僚主義で、地元農家が放射能汚染を懸念して作付け・耕作の見合わせをしている農地を見つけると「農地法違反で、耕作放棄に当たる行為だ」などと因縁をつける形で作付けを強制する行政指導を出しているとのことです。もしかすると、それも国(農水省)が県レベルを通して市町村レベルへ「通達」でも出していて、国が自治体にやらせている「指導」なのかも知れません。
    そういう「行政指導」の言外にある物を考えると良く分かると思いますが、その「前提」は、昨春から枝野前官房長官のTV放送で悪名をはせたあの「ただちに健康に影響ない」という流行語的なフレーズに表れたのと同じく、放射能は「安全」だという神話でしょう。そんな放射能の脳内「安全」神話は、現実逃避の「原発安全神話」とペアになっている系論として作られたシロモノと言えそうですが。

    そういう「安全」神話が前提に立てられる背後には、国家が法令に明記して安全だと言っておるのであるから放射能を発する有害な汚染物質など日本の原発にも農地や山林・海にも存在していないのである、と言いなす法治主義や官僚主義があります。法律上は安全ということになっている以上は現実にも物理的・医学的…にも安全なのである、と言うのが法律万能主義・法治主義ですから。
    元々、法治主義・法治国家は古代中国の秦の国で「法家」により軍国主義・独裁体制の方便として編み出されたものでしたが、最後にはその法律家も国家そのものも自滅に導く結果を招いたことから、「法ヲ為スノ弊」という言葉と共に中国史では知られます。しかし言うまでもなく、日本国憲法に主権在民の定めを明記したような、民主主義を国是とするわが国とは初めから到底、相容れない「主義」でしょう。
    しかし、戦後のわが国が言葉の意味をあいまいにする文化をまん延させたせいかメディア産業による誘導や偏向が報道にまん延したせいか、残念ながら日本の国はいつの間にかそんな秦帝国まがいの「支配者」「統治者」ごっこがバッコするようないびつな国家になってしまっているようです。

    ひょっとすると、問題の伊達市長発言はそうした官僚主義・法治主義による放射能汚染問題の「前提」をここで転換しようとでも言うのかも知れませんが、真意のほどはこのワン・フレーズからは不明です。ただ、有害な汚染物質が同市内の農地等に存在していることは厳然たる事実で、市町村としても農政が文字通り「八方ふさがり」の状態にあるはずですから、その現実を認知する必要は確かにありそうです。
    そのような汚染が続く状態で既にフクシマ事故から1年が過ぎようとしているわけですが、これまでと同じく放射能汚染の存在を適切に認知する姿勢・ステップさえ回避し、現実逃避を続ける限り、福島県に限らず日本全国の国民生活・生産活動を安全に進めて行くことは出来ないはずです。事実に反する「前提」は、確かにただちに改めねばなりませんが、伊達市長の真意はどこにあるのか。

    それにつけても気になるのが、17日付で取り上げられた放射能を発している不気味な黒い粒子の記事と写真です(「南相馬の黒い物質 100万ベクレル 風で舞うことも」)。フクシマ事故からはや1年になるのに、こんな奇妙な物質の情報を見聞するのはこれが最初です。
    こうした明らかな放射性物質・汚染物質がいまも多くの住民が居住を余儀なくされている地域に現に「存在」するという事実すらも、これまでは「法律上は存在しない」などと言う「前提」により、胡麻かして闇に葬られて来たのではないでしょうか?もしかすると、同じような奇妙な黒色粒子は既に全国で見つかっていたり、一般国民が声を上げているのにメディアも国も汚染責任を追及しないでいたりするのではないかと懸念されてなりません。

    何といっても、国内外からあっさりとバカにされた年末のあの野田首相「収束宣言」のパフォーマンスの後、実は先日まで福島原発(二号炉)が「冷温停止」を逸脱した高温になっていることが判明しており、また文科省ですら認めているように、福島市内のモニタリング地点でも放射線量が年末年始~2月中旬の長い期間、かなり上昇していた(或いは今も続いている)事実が存在するわけですから。
    「原発は安全だ」、「放射性物質も安全だ」と神話やホラを吹いて有害な汚染物質の存在を否定するというこれまでの国や自治体とテプコの姿勢は、これもここで紹介された記事を見て驚いたばかりですが、沖縄県のピザ製造店・沖縄そば製造店にまで福島産の薪が流通してピザやソバに放射能汚染が拡大していたと判明したように、二次的・三次的な汚染の拡大を促して来たことも明らかになっています。フクシマ事故の被害も、国やテプコ等の思惑とはむしろ逆に、ずっと拡大の一途をたどって来たということです。

    放射能汚染は存在しない、などとする官僚主義・法治主義を弄していれば、脳内では、なんとか現実逃避することも可能でしょう。しかしそれでも汚染は拡大し、いつの間にか思わぬ所の思わぬ食物にまで放射性物質が入り込んで自分の胃腸に入っていた、などという結果を招いて来たわけです。
    遅まきながらも、放射能汚染が存在しないという「前提」ではなく、それが存在し日本全体(また外国諸国にも)に危機が及んでいると認知するのが正常な姿勢です。今ここで、現実と事実に即するという「前提」に改める必要はありますね。



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